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東京高等裁判所 昭和51年(ネ)97号 判決

控訴人 甲野太郎

右訴訟代理人弁護士 児玉幸男

被控訴人 甲野花子

右訴訟代理人弁護士 小林直人

御園廣實

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は、「原判決を取り消す。控訴人と被控訴人とを離婚する。控訴人と被控訴人との間の長男一郎(昭和四五年一一月一〇日生れ)の親権者を控訴人とする。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」旨の判決を求め、被控訴代理人は、控訴棄却の判決を求めた。

≪以下事実省略≫

理由

一  ≪証拠省略≫によると、控訴人(昭和一九年七月一八日生れ)と被控訴人(昭和二二年八月一〇日生れ)とは昭和四五年一月二五日結婚式を挙げて同棲し、同年二月一四日婚姻の届け出をした夫婦であり、その間には同年一一月一〇日長男一郎の出生したことが認められる。

二  控訴人は、婚姻を継続し難い重大な事由があるとして、被控訴人との離婚を請求しているので、その当否につき判断する。

控訴人は、被控訴人が再三にわたって家出を繰り返し、別居期間も長期に亘ったので控訴人、被控訴人間に回復し難い不和を生じ婚姻関係が破綻したのであり、被控訴人が婚姻継続の意思があるもののように述べているのは控訴人に対する反感やいやがらせ等に基づくものに過ぎないと主張する。しかし、控訴人、被控訴人間に回復し難い不和を生じたこと及び被控訴人が控訴人に対する反感、いやがらせ等に基づいて真実は婚姻継続の意思がないのにあるもののように述べているとのことを認めるだけの証拠はない。

かえって、次のような事実が認められる。

1  ≪証拠省略≫によれば、控訴人は甲野松雄(大正六年三月二七日生れ)、同雪子(大正八年二月八日生れ)の長男として生まれ、日本測量専門学校を卒業し、控訴人の肩書住所地において右松雄夫婦と同居し、不動産業を営なむ松雄のもとで測量士、土地家屋調査士として働らいていた者であり、被控訴人は乙山亀夫、同月子の長女として銚子市○○町×丁目×××番地に生まれ、県立高等学校を卒業し同所で冷暖房機販売業を営なむ実兄と同居していた者であること、控訴人と被控訴人とは双方の親のはからいで見合いし、約五か月間交際ののち仲人にAを頼んで結婚したものであること、結婚後被控訴人は控訴人とともに松雄夫婦と同じ家で暮すこととなったが、控訴人はこれを自己が長男である以上当然であると考えていたため、その点につき被控訴人と特に話合いをしたわけではなく、被控訴人も控訴人の両親夫婦との別居を結婚前特に希望したわけではなかったことが認められる。≪証拠判断省略≫

右1記載の事実に≪証拠省略≫をあわせると後記2ないし8記載の事実を認めることができ(る。)≪証拠判断省略≫

2  控訴人と被控訴人とは結婚後当初数か月間は、円満に暮し、松雄夫婦とも事無く過していたが、昭和四五年五月初め松雄は被控訴人が妊娠したことを知り、夜長男夫婦を正座させて、早く妊娠し過ぎたから中絶手術を受けるようにと言い渡したので被控訴人はその両親に相談するため同月五日控訴人方を出、実家に帰ったが中絶手術を受ける気になれず、仲人のとりなしにより被控訴人の母に附き添われて同月一五日頃控訴人方に帰った。

3  松雄、雪子夫婦の四人の子のうち長女は嫁いで東京に居住し、二男(昭和二一年七月二三日生れ)は○○信用金庫の職員であり、三男は○○○○○○株式会社の従業員であって夫々結婚して他に居住し、測量士でもある松雄の不動産業に日常直接協力する者は控訴人のみであったところ、控訴人はときに日帰りで千葉市の会社等の業務を手伝いに出掛けることもあったが、主として松雄の主宰する「コウノ不動産」の仕事を手伝い、父に逆らわない温和しい人柄である。松雄は、控訴人の人柄から来る気安さもあり、控訴人と被控訴人との間に一郎が生れたのち、一郎が初の男子の内孫でもあったところから、控訴人夫婦の一郎の育て方にくちばしを入れ、昭和四六年一月一一日夜被控訴人に対し一郎の着衣が粗末だと難詰し被控訴人に箪笥の衣類まで調べさせるに至ったので、被控訴人は翌一月一二日早朝前記の実家に一郎を連れて帰ろうとしたが一郎を取りあげられたので単独で実家に帰った。同年二月四日被控訴人はその兄乙山和男、伯父B、仲人Cに付き添われ、控訴人方に帰るにあたっては、松雄は自ら執筆しあらかじめ控訴人の了承を得た被控訴人がその夫である控訴人及びその親族代表甲野梅一にあてて差し入れる二十数日間一郎の保護育成義務を放棄したことを陳謝し今後は自己の行動に責任を持つから末長く愛育を願う旨の「御詫状」と題する書面に署名捺印しなければ家に入れないと主張し梅一が諫めてもきかなかったので、被控訴人は右書面に署名拇印してようやく帰宅することができた。

4  その後昭和四六年七月二一日頃控訴人の母が被控訴人の面前で被控訴人をうとんずる言動を示したので、控訴人は一郎を連れて実家に帰り、仲人に依頼して松雄夫婦に同夫婦と控訴人被控訴人との別居を承知するようすすめてもらったが松雄夫婦はこれを聞き入れようとせず、かえって控訴人をして、同年八月九日被控訴人の実家に離婚届の用紙を持参し被控訴人に対し署名押印を求めさせた。しかし、被控訴人がこれを拒否したところ、控訴人は、同年九月二五日被控訴人を相手方として千葉家庭裁判所八日市場支部に離婚を求める旨の夫婦関係調整家事調停を申し立て、同年一〇月一一日第一回期日が開かれたが、控訴人は、調停委員から夫婦間に問題はない被控訴人と義父母との問題をうまくやるようにと言われて間もなく右申立を取り下げた。被控訴人はその後引き続きその実家に滞在し、控訴人は数回被控訴人をその実家に訪ねて協議した結果、控訴人の求めによって被控訴人は同年一一月八日松雄夫婦あての詫び状を作成提出して控訴人方に帰宅し、右詫び状の返り証として被控訴人の求めによって控訴人は同年同月一七日被控訴人に対し、右詫び状は控訴人の両親のみに対するものであって控訴人被控訴人間には何の関係もなく、控訴人はいかなる場合にも被控訴人と離婚することは絶対になく、なによりも妻子の幸福を願い、もし控訴人肩書住所地家屋において両親と同居するために控訴人と被控訴人とその子の間の平和が乱れるようなら控訴人は家族とともにアパートに住むようにすることを誓う旨記載した「誓い書」と題する書面を作成して交付した。このように当時、控訴人は被控訴人と夫婦円満に共同生活を続ける気持であった。

5  次いで昭和四七年六月頃から同四八年三月頃までの間控訴人肩書住所地の日本家屋を鉄筋コンクリート三階建コウノビルに改築する工事が行われたが、その間松雄夫婦は銚子市○○町××××番地に住む二男方で過ごし、控訴人、被控訴人及び一郎は右日本家屋の一部で平穏に暮した。右ビルディングの三階には控訴人被控訴人の寝室及び一郎の部屋が台所、便所とともに設けられ、改築前松雄は、被控訴人の兄和男に対しビルの中には控訴人と被控訴人とだけが住み得る部屋を用意すると言っていたが、昭和四八年三月一六日右ビルがほぼ竣工し、松雄夫婦が控訴人、被控訴人とともに右ビル内に居住する段になると、松雄は被控訴人に対し長男の嫁として不足であるから、松雄の建てたこの家に住む資格がないなどと言い出し、困憊疲労した被控訴人が控訴人の承諾を得て同年四月一四日一郎を伴い一旦実家に帰って静養する一方、同年四月一八日控訴人方に帰ろうとしたが、玄関先で義母に拒絶され、被控訴人の親族が事態を円満に解決するために繰り返し被控訴人を迎え入れるよう松雄夫婦に申し入れたが拒絶されたまま、同年六月八日本件訴が提起されるに至ったこと、同年同月二四日午後七時頃被控訴人は、一郎を伴い、従兄Dとともに控訴人方を訪れ、応待に出た松雄に対し一郎のためにも控訴人と別れたくないから考えなおしてほしいと申し入れたが、松雄に息子の嫁として不足な女だから一郎を連れて帰れと拒絶され、控訴人に会うこともできずに引き返すことを余儀なくされ、次いで同年一〇月五日一郎を同行中の乙山国夫(被控訴人の兄)と銚子市内で行き会った控訴人は、玩具を買ってやるから一寸と同人を欺いてそう思い込ませ同人の運転していた自動車から一郎を連れ去り、国夫が迎えに行っても、被控訴人が迎えに、行っても一郎を返えさず、そのままその後も控訴人と被控訴人との別居が続いている。

6  しかし、被控訴人が前叙4のように控訴人の母にうとんずる言動を示されて昭和四六年七月二一日頃実家に帰り、控訴人が被控訴人の実家に離婚届用紙を持参した同年八月九日の前後三回に亘り控訴人と被控訴人とは銚子市内や飯岡町内にあるモーテル、旅館等において性交渉を持ち、また昭和四八年六月八日本件訴が提起されたのちも、控訴人は、被控訴人と同年一一月二一日まで五回に亘り、誘い合わせて飯岡町、旭市、銚子市等にあるモーテル、旅館等に赴き、性交渉を継続していた。もっとも、松雄は、昭和四八年一二月七日原審証人として被控訴代理人の反対尋問にあうまで、別居中の控訴人と被控訴人とが旅館等で時を過していることも知らず、また、被控訴人が控訴人に対して愛情があるか否かを控訴人に聞いたこともなかった。なお、控訴人は同年一一月一二日銚子市内において被控訴人と逢った際、被控訴人から控訴人方に残して来た靴を持ってきてほしいと頼まれて、被控訴人に対し親の目がうるさいから新しく買うようにと言い五、〇〇〇円を渡したこともあったが、同年一一月二一日を最後として被控訴人と旅館やモーテルに行くことをしないようになった。

7  松雄は、自ら主宰する不動産業に誇りを持ち、その利益の一部を地元銚子市の育英資金に寄付して地域社会に還元することを忘れない一面、被控訴人が、松雄と同居してその事業に協力している長男と結婚した以上、特に別居を申し出ない限り嫁として当然松雄夫婦との同居を承諾したものであると即断し、これを暗黙の前提として、被控訴人が仲人を通してした新世帯で別居したいとの申し出に耳を借さないなど若夫婦に対する思いやりに足りない点が多かった。他方被控訴人は、一郎が乳児であった当時同人に着物の袖から出る手首の防寒用に腕カバー様のものを作って着用させておいたところゴム紐を強くしすぎて手首に負傷させたことはあるが、これは軽い過失であって取り立てて育児に無責任であるとか、非常識であるとかというほどのことではないが、夫をその両親のもとに残して実家に逃避し勝ちであったことには夫と協力してその両親に接し世代の隔絶を埋めて融和を計ろうとする忍耐と努力とに至らない点がなかったとはいえない。しかし、飜って控訴人について見れば、控訴人は、松雄夫婦と同居し思いやりに欠けた松雄の言動を知りつつ、父母に対して妻たる被控訴人をかばい切れず、両親に知られないよう被控訴人に会い、なだめるだけで、別居した妻に生活費も送らず、妻に対して離婚届用紙を届けて署名捺印を促し、本件訴を提起したりしながら、他方その前後を通じ、松雄に知られないよう被控訴人との性関係を継続し、右関係の一端を松雄に知られると右関係を絶つなど優柔不断の態度に終始していることが窺われ、控訴人には、同居の長男の嫁に過大の忍従を要求する松雄夫婦と被控訴人との対立を融和する努力に欠けるところ大なるものがあったといわなければならない。

8  その後、一郎は、控訴人方において、控訴人と松雄夫妻とによって養育され、控訴人は、昭和五〇年九月頃には、一郎とともに両親と別居し、被控訴人ともども生活できれば婚姻を続けることができるという気持であったこともあるが、翌五一年九月には慰藉料を支払ってでも、被控訴人との婚姻関係の解消を望むようになった。しかし、被控訴人は、ひたすら控訴人が信頼と愛情とを取り戻すことを期待し、差し当りの生活費を取得するため○○○病院に事務員として勤務しつつ貞操を守り、控訴人方の一郎あてに幼稚園服、子供服等を送って子供の幸福のためにも円満な夫婦生活の再開されることを望み離婚する気持は全く持っていない。

以上のように認められる。

右の事実関係を通観すると、昭和四五年二月以来の控訴人被控訴人間の婚姻関係は、一見、昭和四八年四月一四日まで度重なる同居の中断、同年四月一八日以降の別居により、両者間に最後の性交渉のあった同年一一月二一日からでもすでに三年以上を経過した現在では破綻したかのようにみえないではない。しかし仔細に検討すれば、前叙のとおり、控訴人被控訴人は、婚姻当初はいうまでもなく、昭和四六年一一月当時にも夫婦円満に添いとげる気持であり、昭和四七年六月頃から同四八年三月頃までの間は両親と別居したことにより夫婦長男三名で平穏に暮したという実績もある。前叙の控訴人から被控訴人に対し離婚届用紙に署名捺印を求めたり、またその後本件訴を提起したりした前後においても松雄にそのことを知られて控訴人が叱責されるまで控訴人、被控訴人間の任意の性関係はひそかに続けられたことなどから考えあわせると前記離婚届用紙に署名捺印を求めたのにも、本件訴訟を提起追行したのにも松雄の強い意向がおとなしい控訴人の背後に働いていることを窺うに足りる。さらに、松雄夫婦が六〇才前後であり、控訴人夫婦が三〇才前後であり、一郎が物心ついて母を慕う年頃であってみれば、控訴人被控訴人間に婚姻関係の継続を事実上困難にする不和即ち回復不能の夫婦関係の破綻が存在しているとは簡単には断じ難い。そして、仮に破綻というべき程度に達しているとしても、それはもっぱらもしくは主として、控訴人が自己の両親と妻との対立を融和する努力を怠り、両親の意向に盲従していることに起因しているのであり、他方被控訴人に夫婦関係への結びつきと婚姻継続を期待し得る即応性が欠けていることは認められないのであるから、以上を総合すると結局被控訴人の意思に反する控訴人の本件離婚請求は、これを失当として排斥するほかはない。

三  よって、以上と同趣旨の原判決は相当であり、本件控訴は理由がないから、民訴法三八四条に従い、これを棄却すべく控訴費用の負担につき同法八九条、九五条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 吉岡進 裁判官 園部秀信 太田豊)

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